江別市の皆様、介護福祉士講座の5つの特長です
江別はこんな町です
江別市(えべつし)は、北海道石狩振興局管内にある市。札幌市の東に隣接し、同市のベッドタウンとして急速に人口が増加した。近年は、都心回帰や大麻地区の高齢化により人口が微減している。 アイヌ語由来の地名であるが、ユペ・オッ(ラテン文字表記:yupe-ot チョウザメのいる川)[1]、イェ・ペッ(ye-pet 膿汁の川[2]、膿のように濁った川)[3]、イ・プッ(i-put その口、大事な入り口)[4]、ユ・ペッ(yu-pet 温泉の川、硫黄の流れ込む川)、ユペ・オッ(yupe-ot 温泉の水が流れ込む川、同じく硫黄に関連した解釈)、イペ・オッ(ipe-ot 魚のいる川)などの諸説がある。幕末にこの地を訪れた松浦武四郎は、エペッケ(epetke)[5]でウサギの顔のように三つに分かれている所の意とする民間語源を記録している[6][7]。 古くは弘前藩の史料である津軽一統志の、シャクシャインの戦い(1669年)に関連した記事に見える地名である。 市域は石狩平野のほぼ中央で、石狩川の両岸にまたがるが、主な市街地は鉄道や国道の通る川の南側にある。南東の南幌町との境には石狩川の支流・千歳川が流れる。札幌市・北広島市との境にある野幌丘陵には2,000haにも及ぶ野幌森林公園があり、道立自然公園に指定されている。森林公園は現地では『原始林』とよばれていて、その一部は原始の時代から手つかずの状態で保存されている。最高地点である南端部の丘陵でも標高93mで、その他は低地が広がっている。 気候は北海道では温暖な部類に入るが、冬の最も寒い時期は-20℃を下回ることもある寒冷地であり、2008年(平成20年)1月17日の最低気温で-26.1℃を観測した。石狩湾と太平洋を吹き抜ける風の通り道にあたり、一年を通じて風が強い。夕張川、千歳川、石狩川の合流地点に位置するために、しばしば水害に見舞われた。特に7月から8月にかけて豪雨があることが多く、1981年(昭和56年)の大水害の際には1日に204mmという降水量も記録している。 北海道の先史を知る上で江別は重要な地の1つである。続縄文時代には、弥生文化の影響を受けた北海道南西部中心に見られた「恵山文化」と北海道東部にあった文化が、江別を含む石狩低地帯で約1800年前の頃に融合したとされる。江別では後期北海道式薄手縄文土器(後北式土器)が多く出土し、日本先史の権威である山内清男はこれを江別式土器と名づけ、この土器が使われた文化を「江別文化(後北文化)」と呼んだ。なおこの江別式土器は東北地方でも多く出土する。 その後、7世紀から9世紀ごろに築かれた「江別古墳群」もこの地で発見されている。この古墳は現在発見されている古墳のうちで最も北に位置し、東北地方北部の様式に似ることから、本州と北海道との交流を知る上で重要な資料である。 江戸時代には、松前藩によって石狩十三場所が開かれ、このうち上ツイシカリ場所と下ツイシカリ場所が石狩川左岸、現在の世田豊平川合流地付近に位置していた。これら場所と呼ばれる商場は、幕末ころまで存続していた。 現在の江別市に和人が定住したのは、1867年に通行屋(旅行者のために宿泊、休憩の場を提供した)の立花由松が住んだのが最初とされる。1869年、北海道11カ国86郡が置かれ、現在の江別市に相当する地域は石狩国札幌郡に含まれた。1871年、陸前国遠田郡馬場谷地村(現宮城県遠田郡涌谷町)の農民21戸76名が対雁(ついしかり)に来たのが集団入植の始まりである。しかし開墾に難儀し、1873年(明治6年)開拓使開墾掛に換地を願い出て受理され、19戸70名が札幌郡雁来村へ再入植するに至った。跡地は榎本武揚の農場となった。1876年(明治9年)には、樺太・千島交換にともない、岩舩瀬兵衛(開拓使・江別初代村長)により樺太アイヌが対岸に移住させられた。 1878年(明治11年)8月に江別太(現在の王子地区周辺)に屯田兵村が置かれ、同年11月に江別村が誕生した。1881年(明治14年)にも養蚕を営む屯田兵が入植したが、これらの試みは成功しなかった。しかし1882年(明治15年)、官営幌内鉄道が開業し江別駅が設けられると、石狩川水運と鉄道輸送の結節点として市街地が形成された。その後あらためて江別兵村、野幌兵村が設けられ、1884年(明治17年)以降3年間にわたり屯田兵432戸が入植し、開拓事業にあたった。また屯田兵以外の人々による開拓も多かった。中でも大きな成果を挙げたのは新潟県人による北越殖民社で、1886年(明治19年)に江別太へ17戸、1890年(明治23年)には野幌南部へ204戸の入植を果たし、稲作を成功させた。 明治の中ごろになると工業が芽生え始めた。1891年(明治24年)に江別太で煉瓦工場が操業した。ほどなくして北海道炭礦鉄道により野幌煉瓦工場が作られ、また鉄道資材の生産も行われた。1897年(明治30年)に市街地の大半を失う火災にも見舞われたが復興をとげ、1908年(明治41年)には富士製紙会社北海道工場(現:王子特殊紙江別工場)が操業を開始。労働者も多く住むようになり、1916年(大正5年)には町制を施行した。 第二次世界大戦後には引揚者を積極的に受け入れ、また戦後復興にも力を注ぎ人口は伸びていった。1953年(昭和28年)5月23日に市街地の半分を焼く大火を出しながらも、翌年には市制を施行した。1963年(昭和38年)に東野幌に炭鉱離職者団地、翌年道営大麻団地が建設されると宅地化が進行、札幌の衛星都市としての性格が強まった。