函館市の皆様、介護福祉士講座の5つの特長です
函館はこんな町です
函館市(はこだてし)は、北海道の南部に位置する市。北海道内では札幌市、旭川市に次ぐ第3の人口を有する。漁業(港湾)と観光の街。函館山からの夜景が美しく津軽海峡に浮かぶ漁り火(いさりび)がそれに花を添える。中核市に指定されている。 道内では比較的温暖な気候で亜寒帯と温帯の境界線に位置し、陸・海・空の交通の要衝として、また、道南地方の行政・経済・文化の中心として発展した。2004年12月1日、戸井町・恵山町・椴法華村・南茅部町(いずれも当時)が函館市に編入合併した。2005年5月に北海道新幹線 の新青森~(仮称)新函館間(現 函館本線 渡島大野駅)が着工され、2015年度に開業予定であるが函館市内は経由しない。 古来、この地はウスケシ(宇須岸)と呼ばれていた。1454年(享徳3年)、南部氏との戦いに破れた津軽の豪族・安東政季を擁し、武田信広らと共に蝦夷地に渡った河野政通が、函館山の麓(現在の弥生町付近)に築いた館(「宇須岸館」とも「河野館」とも呼ばれる)が箱に似ていたため箱館と呼ばれるようになり、明治時代になって函館と改められたとされるが、諸説ある。 北海道渡島半島南部、亀田半島に位置し、東西と南は海(津軽海峡と函館湾)に面している。市街地は、古火山である函館山とつながる陸繋島である函館半島から、七重浜方面・亀田平野方面・横津岳山麓方面・湯の川方面に展開している。 深い入り江のある、扇を開いたような地形のため、俗に「巴港」(「ともえみなと」や「はこう」とも)と呼ばれる天然の良港として栄えた。市章にも「左一つ巴」が採用されている。 行政区域としては北海道渡島総合振興局に所属する。 対馬海流の影響のため[要出典]北海道の都市としては冬の寒さは厳しくなく降雪量も少ない。また夏の平均気温はむしろ札幌より低い[要出典]。近年のヒートアイランド化などの暖冬化により、最寒月(1月)の気温が旧平年値(1961年~1990年)の-3.4℃から、新平年値(1971年~2000年)では-2.9℃へと上昇したことで、日本では珍しい西岸海洋性気候(気候区分Cfb/c)に分類されることもある。しかし、近年では冬季の温暖化が急激に進んでいる札幌市(中心部)より冬の最低気温が低くなることが多くなってきている。また、市街地の外れにある函館空港(高松町)のアメダスでは、-15度以下まで下がることもあるなど、内陸や郊外は今でも亜寒帯湿潤気候に分類したほうが適切である。 幕末の開港以来、港の発展とともに歩んできた街であり、それに呼応して函館山の周辺から亀田半島方面に向かって市街地が拡がってきた。旧亀田市との合併などはこの流れを受けてのものであり、大野平野を抱える七飯町や北斗市の人口増加にも影響を与えてきた。これらを裏付けるように街の盛り場も十字街地区から大門地区へ、さらに五稜郭地区、昭和・美原地区へと変遷している。 明治の開拓使時代には出張所や支庁が置かれた。その後それらが廃止され北海道庁が設立されるまでのわずかな期間には、函館県の県庁所在地でもあった。このような経緯で道南地方の中心地としての礎が築かれ、今日では主だった国の出先機関や北海道の出先機関である渡島支庁などの行政機関が一通り所在している。教育においては旧制中学校や高等女学校、実業学校という中等教育学校や師範学校が明治時代に相次いで設立され、それらの後身校や新学制以降の設立校が今日まで所在している。医療においても幕末に設立された医学所に端を発する市立病院や他の総合病院など多数が所在している。 地理的に本州に最も近い港町であるため、明治時代から海運は発達し、北海道と本州との連絡としてかつては青函連絡船が、そして今なお定期フェリーが青森との間に就航しており物流の結節点となっている。道都である札幌との間の陸上交通として、鉄道では函館本線(通称:山線)が、道路では国道がともに明治時代に全通し、以降は室蘭・千歳経由の路線(通称:海線)の設置や車両の改良、道路の舗装や拡幅工事などが進められ、時間距離は短縮してきている。近年は札幌側から高速道路が着々と延伸されてきており、一般国道との二重路線化がなされようとしている。空港も昭和中期に開港して以来、滑走路の延長やターミナルの整備が進められ、ジャンボジェット機などによる定期便やチャーター便の就航により国内はのみならず、近年は台湾など国外からの観光客の入れ込みが増えている。また将来的には隣接する北斗市までの北海道新幹線の延伸開業が決定しており、青函トンネル前後の区間で工事が行われている。 高度経済成長期には、地場産業の要である造船とその関連産業が大いに賑わい活気に溢れていたが、オイルショックを境にそれらは一気に冷え込み街に暗い影を落とした。同様にかつては北洋漁業の基地としても栄えており漁船団の一斉出漁なども風物詩として見られたが、ロシア(当時はソ連)の200海里経済水域の設定以降はその姿が消えてしまった。青函連絡船が出港・入港時に鳴り響かせていた汽笛の音も廃止とともに回数は激減し、今では記念館として係留されている摩周丸が12時と17時に鳴らすだけの静かな港になった。バブル経済の崩壊後は、以前より街中の空き家や空きビル、空き地(駐車場)などが目立つようになっている。 経済の悪化に対処するべく企業誘致を進めるとともに、20世紀末からは情報系大学の設立による「IT」産業の育成や「国際水産・海洋都市構想」に基づく試みなど新たな地域発展に向けての取り組みが行われている。