夕張市の皆様、介護福祉士講座の5つの特長です
夕張はこんな町です
夕張市(ゆうばりし)は、北海道空知地方の市。北海道の中央部に位置し、かつては石狩炭田の中心都市として栄えた。夕張メロンの産地として知られる。しかし、2006年(平成18年)には深刻な財政難のあおりを受け、2007年(平成19年)3月6日をもって財政再建団体に指定され、事実上財政破綻した。 地名の由来はアイヌ語の「ユーパロ(鉱泉の湧き出る所)」から。 空知地方南東部の山あいに位置する。人口は市域の西側、紅葉山地区から夕張地区まで、谷間を縫うように走る石勝線夕張支線に沿って集中している。市役所は過去に夕張炭鉱があった谷合いの集落の最北部に設置されている。 夕張山地と空知山地に跨る石狩炭田の南部に位置し、かつて市域に多くの炭鉱があった。市域東側には山林が広がり、その山林や集落部から流れる川は南部で合流し、夕張川として南部を渓谷を作りながら流れている。 明治初期から炭鉱の町として栄え、空知地方でも特に多くの石炭を産出した。1874年(明治7年)にお雇い外国人で北海道開拓使(当時)のベンジャミン・スミス・ライマン地質学士がこの地を踏査し、夕張川流域に石炭鉱脈の存在が考えられると発表。1888年(明治21年)に北海道庁の技師で元ライマン調査隊隊員の坂市太郎(ばん いちたろう)が再調査により大露頭(鉱脈)を発見、入植者の募集と試掘に始まり多数の炭鉱が拓かれ、国内有数の産炭地として盛況を誇った。 1960年(昭和35年)には北炭(夕張鉱業所・平和鉱業所)・三菱(大夕張鉱業所)の三大鉱業所を中心に北炭機械工業(鉱山・産業機械製造)、北炭化成工業所(コークス・化成品製造)などの関連産業も発達し、116,908人の人口を抱える都市となった。 しかし、昭和30年代後半以降エネルギー革命が進行、海外炭との競争、相次ぐ事故、国の石炭政策の後退に直面。鉱業者側も手をこまねいていたわけではなく、鉄鋼コークス用などの原料炭(高品位炭)など価格の高い炭種の供給に活路を見出すべく、大きな期待と成算を持って三菱南大夕張炭鉱、北炭夕張新炭鉱が開発されたが、その後の鉄鋼不況により需要は伸びず、1973年(昭和48年)に大夕張鉱業所が閉鎖して以来閉山が相次ぎ、1981年(昭和56年)には市内屈指の規模を持ち基幹事業所だった北海道炭礦汽船(北炭)夕張新鉱で北炭夕張新炭鉱ガス突出事故が発生し、後に夕張新炭鉱を運営してきた北炭夕張炭鉱株式会社は倒産、石炭産業の衰退に拍車がかかった。石油ショックの克服を大義名分とした官・民の多岐にわたる国内資源振興策も決定打とはならず、その後の安価・良質の海外資源へのなだれ現象、そして政府の合理化政策の前に各炭鉱の経営はジリ貧となっていき、企業は国内の炭鉱から次々撤退。国内第一の規模・炭質を誇った夕張もその例外ではなかった。1990年(平成2年)に最後まで残っていた三菱石炭鉱業南大夕張炭鉱が閉山した。 夕張は元々炭鉱により開かれた町で、大規模な農業にも向かない地域だった上、石炭産業以外の産業基盤が皆無同然だったため雇用の受け皿がなく働き手の若者が都市へ流出し、人口が激減。街には高齢者が残る結果となり、少子高齢化が進んだ。 現在では、歌志内市、三笠市に次いで、全国で3番目に人口が少ない市で、人口密度は全国の市で最も低い。これに加え1991年(平成3年)より北海道開発局によって夕張川に夕張シューパロダムの建設が計画され、これに伴い大夕張地区の住民188戸が移転した。2006年(平成18年)よりダムは本体工事を開始し2013年に完成する予定である。ダム完成による莫大な固定資産税収入や水源地域対策特別措置法による周辺地域整備のための国庫補助などで新たな観光拠点育成としての期待がある一方、世界で唯一の橋梁形式である三弦橋の水没や公共事業依存への懸念が出ている。 現在は気温の寒暖差を生かしたメロン栽培(夕張メロン)、花畑牧場、ゆうばり国際ファンタスティック映画祭など観光の町として町おこしを進めているが、厳しい状況にある。