宇都宮市の皆様、介護福祉士講座の5つの特長です
宇都宮はこんな町です
宇都宮市(うつのみやし)は、関東地方の北部、栃木県の中部に位置する市で、同県の県庁所在地である。同県最大の人口で、1996年4月1日より、中核市に指定されている。 宇都宮市は、栃木県の県庁所在地で、県の中南部、関東平野の中北部に位置する。中心市街地は日光連山から連なる山地が収束し平野部となる境界域、二荒山神社と宇都宮城址公園付近を中心に形成されている。市域には鬼怒川、田川、釜川、新川、姿川などの河川が流れ、河岸はその河岸段丘と沖積平野となっている。太平洋戦争の終結以来、宇都宮市域(旧宇都宮町や宇都宮市の区域)の拡大などもあって住民人口は激増し、2007年(平成19年)3月31日の河内郡上河内町および河内町の合併直前の宇都宮市人口は48万人前後に達していた。現在、市域人口は50万人を超えており、本市を中心市とする宇都宮都市圏(都市雇用圏-2005年)の人口は約108万人と、中核市を中心とする都市圏としては日本国内最大規模となっている。市の東部に大規模な内陸型工業団地が開発され、1984年(昭和59年)には関東地方では唯一「テクノポリス」に地域指定されるなど工業都市としての顔を有し、県内では工業製品出荷額が第1位、また年間商品販売額においては県内はもとより北関東第1位であり、北関東で最大、また国内でも有数の地域商工業都市となっている。 本市西部で採掘される「大谷石」は、帝国ホテル建設などに使われ、東京大震災での安全実績が評価され、その後関東各地の建造物の建材として汎用された。また、近年本市は「餃子の街」として有名となり、観光客数が増加している。他にもカクテルやジャズなどを活用した地域おこしも進められている。 市章は「亀の甲」と漢字の「宮」を模したデザインを用いている。「亀の甲」は宇都宮城の別称「亀ヶ丘城」に由来する。市内にはこのほか「亀の甲坂」や「亀ヶ甲」、「亀の井」といった亀の付く地名等が見られる。歴史的には鎌倉亀ヶ谷に居したと云われる下野守源義朝にも因む。 2008年(平成20年)3月、市周縁部開発による市域拡大を見直し、自動車に依存しないネットワーク型コンパクトシティ(連携集約型都市)を目指す第5次宇都宮市総合計画が策定され、『みんなが幸せに暮らせるまち』『みんなに選ばれるまち』『持続的に発展できるまち』を街造りの戦略的ターゲットとし、昭和末期から平成期にかけて行われてきた郊外部の非計画的開発に歯止めをかけ、既に開発された土地を最適化して集約都市を目指す計画が施行されている。基本骨格としては、宇都宮(二荒山神社)中心市街地を中央拠点として市の全機能を集約し、周縁部の地域拠点との間には連携ネットワークを構築し、さらに各地域には地域内完結型ネットワークを維持するというもので、ターゲットの2022年(平成34年)の達成を目指す。本計画に基づいて二荒山神社前の24階建て複合ビル事業や宇都宮駅西口のホテル・マンション複合ビル事業、旧市街地を東西に縦断する新交通網LRTの建設構想がスタートしているが、LRTについては今なお建設論争が続けられている。なお、24階建て複合ビルは2010年に完成した。 2010年(平成22年)より、『住めば愉快だ宇都宮』をブランドメッセージとする全国へのPR活動もスタートしている。 歴史的には、当地は古代毛野国、令制国時代には下野国に属し、市域姿川流域には縄文時代の大集落跡である根古谷台遺跡があるなど、紀元前より人の生活の場であったことが知られている。また宇都宮市中心市街地は平安時代の下野国河内郡池辺郷で、その東端を流れる田川沿岸には旧古多橋駅が、また市東部郊外を流れる鬼怒川の沿岸には旧衣川駅があったと推定されており、さらに市域平野部には紀元4-7世紀に建造されたと推定される古代古墳や住居跡が多数存在し、戸祭山麓には下野薬師寺や河内郡衙で使用された屋根瓦を焼いた窯跡もあるなど、東山道沿道にあり地域人口の一集積地であったと考えられている。上代には池辺郷の鏡ヶ池畔には地の神を祀る社が建てられ、平安時代後期にはこれを『宇豆宮』『宇都宮明神』として祭祀し、鎌倉時代から戦国時代にかけてはこの神領を預かった神職家で北面武士でもあった一族が宇都宮氏を名乗り鎌倉御家人として宇都宮城に居し、城下に多数の仏教寺院を建立して宇都宮は東国の都であったと比喩されることもあった。この宇都宮社は、中央政権が関東・奥州を掌握するために東国に派遣した諸武門の奉幣を受け、藤原秀郷の平将門の乱、源頼義の奥州十二年合戦、源頼朝の奥州征伐、徳川家康の征夷大将軍就任など、その機会は日本史上の節目に前後して行われた。宇都宮城下は鎌倉街道中道(奥大道)や日光古道などが通る交通の要衝で、沿道は富で潤いその痕跡は日光古道沿線の西根や門前などに今も見られる。しかし世界情勢の不安定化に伴う鎌倉府の弱体化と後北条氏の台頭に拠って宇都宮氏も勢力を弱め、近接勢力の那須氏や日光山僧兵の侵略を受けて宇都宮は一時灰燼化する。宇都宮氏は拠点を大谷の多気山に移すが、程なく豊臣秀吉の小田原征伐に続く宇都宮仕置よって宇都宮に復帰するが、秀吉の死に前後して改易となった。その後宇都宮城主となった浅野長政や蒲生秀行は城下に紺屋町、日野町といった商人街を作り、また征夷大将軍となった徳川家康は宇都宮社に寄進してこれを復興するとともに、宇都宮を古道奥州道・日光道の宿駅に命じ、宇都宮城主奥平家昌や本多正純が宿場機能を併せ持つ近世宇都宮城下町を整備し、宇都宮宿は五街道のうち日光街道・奥州街道の二道の追分となり、街道一の繁盛地として大いに賑わった。当時の宇都宮宿は地方宿としては日本国内最大規模の宿場町で、五街道では東海道大津宿、府中宿(家数3,500軒、人口14,000人級)や熱田宿、日光街道千住宿(家数2,000 – 3,000軒、人口10,000人級)には及ばないものの、東海道品川宿や四日市宿、桑名宿、岡崎宿、浜松宿、島田宿、奥州街道白川宿、甲州街道八王子宿(家数1,200 – 1,800軒、人口6,000 – 7,000人級)と同等の規模を擁していた。市域を通る二つの街道には、ほか雀宮宿、徳次郎宿、白沢宿が置かれた。幕末には戸田氏が宇都宮藩主となり、山陵志を著わした蒲生君平を輩出するなど王政復古に寄与し、宇都宮戦争によって城下は再び灰燼と帰すが、明治期には明治天皇によりその業績が称えられた。近代には奥州街道に代わって明治国道6号(現国道4号)が設けられ、第14師団の本営が置かれると本営のあった国本村戸祭まで明治国道60号(大正国道29号、現国道119号)も開通した。宇都宮は軍関係の需要が増え軍都として繁栄したが、太平洋戦争末期の宇都宮大空襲で三度目の灰燼となった戦後は、内陸型近代工業を中心とする近代産業都市として発展した。 現在、宇都宮城、清巌寺鉄塔婆、一向寺汗かき阿弥陀、宝蔵寺およりの鐘、興禅寺木造釈迦如来坐像、旧篠原家住宅、その他大谷石建築や八幡山公園の大楠、旭町の大いちょう、祥雲寺のしだれ桜などの歴史遺産・自然遺産の保全活動にも手が尽くされ、2007年(平成19年)には宇都宮城址公園が日本の歴史公園100選に選定され、また2009年(平成21年)4月10日には1960年(昭和35年)3月15日の地域指定より一度も公園計画が策定されて来なかった宇都宮県立自然公園にも公園計画書が制定されている。 栃木県のほぼ中部関東平野の北端に位置し、首都東京から約105km北、標高は市中心部で約100m。南部は平坦な土地が広がり、東部を鬼怒川、中央部を鬼怒川支流の一つ田川、西部を思川支流の姿川が流れる。また、中心市街地には釜川、新川が流れる。 土地は鬼怒川が流れる市東南部地域が最も低く、北西部に向けて徐々に高くなっており、その先には古賀志山・多気山・鞍掛山など小高い山が連なっている。 宇都宮市街地は、この北西部山系から連なる戸祭山、八幡山、二荒山(明神山)のちょうど終端に位置する。背に北部山系を配し、平地開口部には田川等の水系を配す、典型的な「天然の要害」であり、この「地の利」を巧に取り込んだ宇都宮城の城下町から発展を続けている。 宇都宮は、蝦夷平定のためこの地に足を踏み入れた豊城入彦命が開祖といわれており、当時「池辺郷」といったこの地に命を神として祀った宇都宮二荒山神社(社伝によると西暦353年創祀)の門前町として、また二荒山神社の神官としてこの地に赴任した摂関家藤原北家道兼流・宇都宮氏の直轄地として栄えた。 「宇都宮」という都市名と、嫡流「宇都宮氏」の名称は、延喜式神名帳にある下野国唯一の一宮名神大社である「二荒山神社」の別号「宇津宮大明神(宇都宮大明神)」に由来するというのが一般的だが、他にも「現の宮」、「遷しの宮」、「討つの宮」など諸説がある。江戸期の森幸安の「下野州河内郡宇都宮地図」によると、「宇」とは「宇宙」つまり「太廣」の意で、又「卯」と同じ「東」の意、「都」は「京(みやこ)」と同訓、「宮」は「宮殿」の意味であり、即ち(当時は関東の中心は江戸であったが)宇都宮とは古くから関東の都である、とある。宇都宮二荒山神社はその武徳が尊ばれ、かつてこの地を訪れた田原藤太藤原秀郷(藤原北家魚名流)や武家源氏の祖である源頼義・八幡太郎源義家父子(河内源氏)、源頼朝(河内源氏)、徳川家康(河内源氏義家流新田氏)等の名将らも戦勝祈願し、土地・金品等が寄進されたと言われる。 律令制度が整備されてからは、道路としての東山道、鎌倉時代には鎌倉街道の中道が通っていた。田原街道の田川橋梁は古来鎌倉橋とよばれてきた。 その後、1598年に宇都宮に入封された蒲生秀行(12万石)が日野町や紺屋町を造成し、宇都宮氏の居館(中世宇都宮城)は近世宇都宮城へと継承された。さらに小山藩3万石から加増を受け15万5千石で宇都宮藩に入封された徳川家康の腹心である本多正純が城下町を含めた宇都宮城改築の大普請を行い、城下町・宇都宮の礎を築いた。また、江戸時代には日光街道・奥州街道が通る宿場町・宇都宮宿としても繁栄した。 江戸時代後期には戸田氏が6-7万石で入り、幕末まで続いた。宇都宮新石町出身の蒲生君平は天皇家陵墓に関する調査研究結果を山陵志にまとめて幕府・朝廷より評価され、その功績で宇都宮藩は天皇陵墓修復工事を任され、当時の難局を回避した。 明治維新では宇都宮城周辺が戊辰戦争の戦場となり、また日露戦争後は軍備拡大により第14師団司令部が置かれ、太平洋戦争が終わるまで軍都と呼ばれ軍需産業も進出したが、1945年(昭和20年)7月12日の宇都宮空襲では600名を超える市民が死亡し、主要な都市構造物が焼失した。 歴史的構造物は時代が生まれ変わるごとに破壊と再生の道を辿ってきたが、宇都宮二荒山神社を礎として、様々な文化を受け入れる温故知新の社会構造は、脈々と現代に受け継がれている。