甲府市の皆様、介護福祉士講座の5つの特長です
甲府はこんな町です
甲府市(こうふし)は、山梨県中部に位置する都市で同県の県庁所在地・特例市。なお、2011年8月1日以降、県庁所在地の中で最も人口が少ない都市となるとする報道がある[1][2]が、2010年12月1日現在の推計人口で計算すると鳥取市が最下位となる。 甲府市域は山梨県の中央を南北に三日月形に縦断しており、市街中心部は甲府盆地の中央北寄りに位置する。山梨県は首都圏整備法上の首都圏に属する県であり、その位置関係から東の関東地方への志向性が強い。 2000年11月1日に特例市に指定された。近年では、宝石研磨産業が盛んである。 甲府という名称は、1519年(永正16年)に武田信虎が居館を石和(現在の笛吹市石和町)、次いで川田(現在の甲府市川田町)から躑躅ヶ崎館(現在の武田神社・甲府市古府中町)へ移した際に、甲斐国の府中という意味から甲府と命名したことに始まる。戦国時代には大名領国を形成した武田氏の本拠地となり、武田氏滅亡後は徳川氏や豊臣系大名浅野氏の甲斐国経営の中心となり、国中地域や甲斐国の政治的中心地と位置付けられる。江戸時代には江戸の西方の守りの要として重要視され、また甲州街道の宿場町としても盛えた。 市域は甲府盆地の中央部を南北に縦断する形で位置しており、周囲を奥秩父山塊、御坂山地、南アルプスなどの山々に360度囲まれたその地形を1939年の一時期、市内に住んだ太宰治は、著書「新樹の言葉」の中で、「シルクハツトを倒(さか)さまにして、その帽子の底に、小さい小さい旗を立てた、それが甲府だと思えば、間違いない」と表現した。市街中心部の標高は約250mから300mであるが、市域全体の標高差は大きく、最低部は市域南部の笛吹川付近の標高約245m、最高部は市域最北端、長野県川上村との境界にある金峰山の標高2,599mと実に標高差は2,350mに達する。市域北側の大半は秩父多摩甲斐国立公園に属し、奇岩と渓谷美で知られる国指定特別名勝御岳昇仙峡は山梨県を代表する観光地である。 盆地のため内陸型気候で寒暖の差が激しく、夏は暑く冬は寒い。 気候は中央高地式気候に区分されるが、夏季には日本有数の酷暑となり、2004年7月21日に甲府地方気象台で観測された40.4℃は日本の気象観測史上、日最高気温歴代6位タイ[3]である。一方冬季は厳しい冷え込みとなり、同気象台で1921年1月16日に観測された氷点下19.5℃が甲府での最低気温であるが、大局的には表日本型気候であるため雪が積もることは少なく、年間降水量も日本の中では少ない方である。 市域に旧石器時代の遺跡は見られないが[5]、相川河床からは県内で二例目となるナウマンゾウの臼歯化石が発見されている。 縄文時代の遺跡は荒川上流域にあたる市域北部の山間地域から中部の沖積低地にかけて散在し、同じく山間地である早川流域や芦川流域と共通した特徴を持つ。県内において縄文遺跡は早期から盆地南部の曽根丘陵(旧中道町域)や八ヶ岳山麓など山麓、丘陵地域を中心に分布しており、丘陵地形の未発達な市域では縄文遺跡は少ないが、市域北部では早期からの遺跡や遺物が見られる。 南部低地への本格的な定住は弥生以降であると考えられているが、中期の高町遺跡はこの時期に特徴的な集落遺跡で、祭祀遺構や遺物、墓域などが見られず短期間に存続した小規模な集落遺跡が分布する特徴を持つことから、南部低地へ進出した勢力の拠点集落であると考えられている。南部低地は長年の洪水による土砂の堆積や市街化により遺跡分布の把握が不十分であるが、微高地上に立地する上石田の上石田遺跡は安定した定住痕跡が見られ、漁業に用いられた土錘なども出土している。 弥生時代の遺跡は隣接する甲斐市南部(旧敷島町域)にある弥生中期から後期の金の尾遺跡が県内ではじめて発見された大規模弥生集落として知られるが、市域では把握が不十分であるものの弥生時代の遺構には乏しく断片的に発見されている遺物が中心となっている。県内では弥生前期から弥生文化の伝来があり、市域では荒川扇状地の榎田遺跡が弥生後期の集落遺跡として知られ、住居跡や方形周溝墓などが検出されている。遺物は自然堤防や微高地上に分布し、東海系や北陸系などの様々な特色をもった土器が発見されていることから複数経路で導入されたと考えられている。水田跡などは検出されていないが、増坪遺跡から炭化米が発見されている。 甲府盆地における古墳文化の流入は東海地方経由での波及が考えられており、弥生以来の方形周溝墓群などが分布する盆地南部の曽根丘陵において定着した。古墳の築造は4世紀にはじまり曽根丘陵では有力首長層の古墳が出現し、4世紀後半には畿内のヤマト王権の影響を受けた前方後円墳である甲斐銚子塚古墳を最大に古墳中期まで栄えた中道勢力が台頭する。5世紀代に中道勢力が衰退すると古墳の築造は盆地各地へ広まり被葬者層も拡大し、6世紀代には市域を含む盆地北部など各地で中小規模の古墳が築造され、横穴式石室も出現する。 市域を含む盆地北部では出土遺物の特徴として、弥生以来の中央高地特有の土器と東海地方特有のS字かめの混在状態が見られ、市域東部の和田町・川田町では4世紀中半代の方形周溝墓が分布する桜井畑遺跡があるが、前期古墳は和戸町に所在していたという琵琶塚古墳が消滅しているが銅鏡の出土した前方後円墳である可能性が考えられている程度で、本格的な古墳の出現は古墳後期にはじまる。 6世紀には湯村の万寿森古墳は笛吹市八代町の荘塚古墳とともに盆地最古の横穴式石室を持つ円墳として知られ、市域東部の里垣・甲運地区や西部の湯村・千塚など山麓地域を中心に中小規模の古墳が分布する群集墳が出現する。この頃には盆地北西部において甲斐市の赤坂台古墳群など盆地北西部勢力が台頭するが、市域の加牟那塚古墳はこの盟主墳と考えられており、6世紀後半代の甲府盆地では盆地北西部勢力と笛吹市八代町の姥塚古墳を盟主墳とする八代勢力の対立構造が想定されている。盆地北部において活動した渡来人に関連する遺跡が分布しているが、市域では横根町から桜井町にけての横根・桜井積石塚古墳群が渡来人が群集墳であると考えられている。