八幡浜市の皆様、介護福祉士講座の5つの特長です
八幡浜はこんな町です
八幡浜市(やわたはまし)は、愛媛県の南西部に位置し、四国一の規模を誇る魚市場をもつ市である。旧西宇和郡。ウンシュウミカンの銘柄産地としても知られる。2005年(平成17年)3月28日、西宇和郡保内町と合併(合体)し、新しい八幡浜市となった。 佐田岬半島の付け根に位置し、天然の良港として古くから栄えてきた。平地が極めて乏しく、傾斜地は柑橘類の園地として利用されている。 東隣の大洲市とは国道197号の夜昼トンネルで結ばれている。 市名の由来は八幡浜浦にあるが、いつ、八幡浜という地名が生まれたのかは定かではない。 しかし、こちら[1]で解説をしてくれている方がいらっしゃるので、以下引用。 「……そもそも「八幡浜」という地名が初めて歴史上に登場するのは暦応4年(1341年)のこと。足利尊氏の家臣摂津親秀が嫡子能直に与えた譲状で、「矢野保内八幡浜」という記述が出てくるらしい。八幡浜は律令制の昔、矢野郷とか矢野保と呼ばれた荘園であった。平安時代には矢野郷に矢野保があった。矢野保の内、矢野保内とも呼ばれた。宇和島藩の頃(1696)、この矢野保内が、矢野組と保内組に分割される。矢野組の中心地が矢野町と八幡浜浦である。今は八幡浜市となっているが、旧保内町の名前の由来はこの保内組にある。 八幡浜の地名の由来は、養老元年(717年)、この地に八幡神が降臨したことによるとされる。明治初年の地誌、半井梧菴の「愛媛面影」には、「八幡大神立たせるによりて八幡浜と名づく」とある。八幡大神の鎮座する海浜の村ということらしい。 愛宕山の麓、矢野町に旧県社の八幡神社がある。「宇和旧記」によれば、昔八幡浜浦に光る物体が夜な夜な現れ、地下人が調べていたろころ、あちこち移動してこの場所に再度現れたために、社檀を立てて御神体を納めて氏神として祀ったとされる。この神社の社宝には、県指定文化財にもなっている「八幡愚童記」という本が2冊あり、八幡神の威徳を分かり易く解説したもので、元寇の役の根本資料となっていると言う。」(引用終わり) 明治時代には、四国のマンチェスターと称されたほど産業が興り、四国で一番早く電燈がともったのも、愛媛県下で最初の銀行が開業したのもこの地であった。当時は、現日土町今出や旧保内町須川等に銅山もあった。なお、金山出石寺の「金」とは、銅のことである。 自称「日本一のみかん産地」として、ウンシュウミカンを中心とした生産であり、山頂近くまでみかん園が広がっている。「三つの太陽」に育てられるといわれるように、太陽、海面の照り返し、石垣(白い石垣)の照り返しによりたっぷりと日の光を浴びて育つ。ここ数年は、さらにマルチ栽培も普及しており、これを加えて「四つの太陽」と呼ぶことも多い。 みかん栽培農家のために小学校には農繁休暇という制度がある。季節の話題として毎年のように、マスコミが取材に訪れる。また、みかん収穫期には農家への住み込みアルバイトがある。 2005年には柑橘類が雪焼けなどの被害にあい、被害額が10億円を超えた。 八幡浜港は、宇和海に面し、さらに佐田岬半島をはさんで瀬戸内海にも近いことから漁業が古くから発達し、しかも水産物市場を有し、近隣の漁港からも鮮魚が集まってくることに加え、八幡浜市から南の宇和海沿岸部は養殖漁業も盛んであり、多種類の魚貝類の取引がなされる。水揚げされた魚介類は、京阪神方面をはじめとして各地に陸送される。トロール漁業の基地でもある。