堺市の皆様、介護福祉士講座の5つの特長です
堺はこんな町です
堺市(さかいし)は、大阪府泉北地域に位置する市。 大阪府では人口・面積が第2の都市である。 2006年4月1日に、日本で15番目、近畿地方では4番目、非道府県庁所在地では3番目、大阪府でも大阪市に次いで2番目の政令指定都市に移行した。 昼間人口より夜間人口の方が多いために、大阪市のベッドタウンと位置づけられている。 大阪府中央部を流れる大和川を挟んで大阪市の南側に位置し、北東は松原市、東は羽曳野市、富田林市、南東は大阪狭山市、河内長野市、南西は和泉市、西は高石市に接している。 市の西部(堺区・西区)は平坦で、古くからの工業地や商業地が多く市街化が進んでいる。大阪湾に面する北西部は新日本製鐵堺製鐵所を始めとする「堺泉北臨海工業地帯」と呼ばれる工業地域である。 西区の浜寺昭和と諏訪ノ森は邸宅や別荘が建ち並ぶ高級住宅地であり、かつては海浜リゾート地であった。現在は浜寺沖の埋め立てと重工業コンビナートの形成により、湾岸部は漁港やヨットハーバーとなっている。 中央部(北区・中区・西区)は大阪市の上町台地から続く高台(三国ヶ丘台地)で、上野芝にはその地形を生かして戦前、阪和電鉄により「向ヶ丘」「霞ヶ丘」の住宅地が開発された。また、戦後は新金岡や中百舌鳥などに大規模団地が建設され、1970年代には北東部(北区)の市街化も進んだ。 南東部(東区)の初芝と大美野は戦前に住宅地として開発されたが、周辺は緩やかな台地と田園地帯で農地も多く残る。 南部(南区)は丘陵地となっており、泉北ニュータウンが広がっている。 「堺」の地名は平安時代には見られ、摂津国、河内国、和泉国の「境(さかい)」に発展したことによると言われている。「境」、「左海」などとも表記された(宿院交差点にある石灯籠には「左海たばこ庖丁鍛治」と書かれてある)。 鎌倉時代以降は、摂津国と和泉国の荘園名として見られ、江戸時代(元和年間)以降は、両国の国境に大小路という大通りを敷いた町となった。宝永年間には大和川の付け替えが行われたが、明治3-4年まで大小路は国境の役割を果たした。 国境が大和川に変更された後は和泉国のみに属する町となったが、1938年(昭和13年)の南河内郡金岡村編入以降、和泉国と河内国に跨る市域を形成するようになり現在に至っている。このため、他の泉州地域と区別され、「堺・泉州」や「堺・泉北」のように分けて表記されることが多い。 石器時代 [編集] 現在の堺市域に人が定住したのは古く旧石器時代とされる。市内各地の遺跡からは旧石器時代の打製石器や縄文時代の土器・石器、弥生時代の銅鐸・土器などが発掘されている。また、浜寺の四ツ池遺跡は池上・曽根遺跡(和泉市・泉大津市)と並ぶ弥生時代の集落遺跡で、堺市域では最大規模を誇る(浜寺中学校造成と第二阪和国道敷設工事のため遺跡としての形はとどめていない)。1989年には国の史跡に指定された。このほか、石津川流域の下田町や鶴田町でも、竪穴住居跡を中心とする集落や土器・金属器などが出土している。 古墳時代(ヤマト王権の重要地) [編集] 古墳時代には、泉北丘陵を中心に須恵器の生産が行われた。生産は奈良時代を経て平安時代まで続いた。泉北ニュータウン周辺や信太山丘陵にかけて須恵器の釜跡などの遺跡が点在しており、「陶器」「釜室」などの地名が現在も残る。ヤマト王権成立後は大仙陵古墳など大小100数基の百舌鳥古墳群が造られた。 神功皇后が三韓征伐からの帰途、七道の浜に寄り、地元の豪族の田蓑宿禰に津守氏の姓を与え、住吉三神を祀るように告げたという(住吉大社の起源)。 飛鳥時代(難波大道と交通網) [編集] 飛鳥時代になると、難波宮、難波京や難波津から四天王寺を経て上町台地を南北に貫く難波大道と、飛鳥の都と方違神社を東西に結ぶ丹比道(竹内街道の前身)、大津道(長尾街道の前身)が整備される。奈良時代から室町時代にかけて、これらの街道沿いの美原区大保(丹南)や北区金岡・東区日置荘周辺には河内鋳物師と呼ばれる人たちが多く住んでおり、東大寺再興や鎌倉大仏の鋳造などで活躍した。 平安時代・鎌倉時代(堺北荘と堺南荘) [編集] 平安時代には熊野詣の宿として境王子と大鳥居王子が設置された。鎌倉時代には京都、奈良など後背都市の産業を背景に南北の堺荘が成立。 南北朝時代(南朝と勘合貿易) [編集] 南北朝時代には、南朝(吉野朝廷)方の住吉大社宮司の津守氏に関係して南朝の外港的役割を担うようになり、廻船が発着する港へと発展した。地下請の特権を得て、室町時代には足利将軍家や三管領の細川氏などが行った日明貿易(勘合貿易)の拠点となる。戦国時代には明やルソン・カンボジアなど東南アジア方面での貿易で栄えた。 室町時代・戦国時代(東洋のベニス) [編集] 応仁・文明の乱以後、それまでの兵庫湊に代わり堺は日明貿易の中継地として更なる賑わいを始め、琉球貿易・南蛮貿易の拠点として国内外より多くの商人が集まる国際貿易都市としての性格を帯びる。布教のため来日していたイエズス会の宣教師ガスパル・ヴィレラは、その著書『耶蘇会士日本通信』のなかで、「堺の町は甚だ広大にして大なる商人多数あり。この町はベニス市の如く執政官によりて治めらる」と書いた。この文章によって、堺の様子は当時の世界地図に掲載されるほどヨーロッパ世界に認識されることとなる。ヴィレラの後継宣教師であるルイス・フロイスもまた、マラッカの司令官宛に「堺は日本の最も富める湊にして国内の金銀の大部分が集まるところなり」と報告、その著書『日本史』のなかで堺を「東洋のベニス」と記している。 堺の鉄砲鍛冶(和泉名所図会)/国会国立図書館所蔵 安土桃山時代(自治都市) [編集] 安土桃山時代には貿易港としての地位を揺るぎないものとし、戦乱から町を守るため周囲に堀を巡らせた環濠都市を形成。会合衆(えごうしゅう)と呼ばれる商人たちが自治的な都市運営を行い、中世の自治都市となるが、その価値に注目した織田信長、豊臣秀吉らの前に屈服。自治機能が解体され、彼らの支配下(直轄地)に置かれる。その後、秀吉が大坂城を築き、城下町が開発されるに伴い堺商人の多くが大坂へ強制移住させられたため、堺の都市機能は著しく低下した。同様に全国各地の城下町にも堺商人が移り住むようになる。産業面では戦国期より鉄砲生産が盛んに行われ、また文化面では今井宗久や千利休に代表される茶の湯などが特記される。 江戸時代(近世都市の源) [編集] 江戸時代には堺奉行が置かれ、糸割符など保護を受けるが、鎖国の成立とともに経済の中心は大坂へ移り、管轄も大坂町奉行が兼任する。1704年には大和川の付け替え工事が行われ、陸続きであった堺と住吉が分断された。しかも、この開削により河口付近に多量の土砂がたまったため、堺港に大きな船が停泊できなくなった。これにより、港湾機能も縮小せざるを得なくなった。 しかし、中世の自由都市堺と、江戸初期の堺の財力は莫大なものがあり、それが後世の日本に与えた影響は莫大である。中世の日本において一貫して大都市といえるのは京都だけであり、当時陸運の便利がよい京都に商人が集中していた。一方で堺は積極的に海運のため、全国の主に海岸の中小都市に莫大な投資を行った。その当時既に繁栄していた博多、鹿児島、大分などはともかく、それ以外の全国の多くの都市について、その発展の基礎部分に中世の堺商人の投資が大きな影響を与えているともいえ、それは大阪、名古屋、東京なども例外ではない。 江戸時代後期からそれ以降(工業都市) [編集] 江戸時代でも後期に入ると、醸造業などが栄えた影響で再度活気を取り戻すようになる。幕末になり、欧米列強が大坂の開港を要求すると、大坂が京都に近いことを理由に堺がその代港候補に挙がる。だが幕府内の勤皇派は、堺周辺には古墳が多いため、堺を開港地にすると外国人が無断で古墳に出入りする可能性があると指摘。そのため、第二候補であった兵庫(神戸)が開港地に選ばれた。この結果、堺は中世以来の国際貿易港への復帰の道を閉ざされ、その座を神戸に明け渡すことになった。明治以降は、紡績や煉瓦産業を中心に次第に工業都市へと変貌を遂げていき、阪神工業地帯の一角を占める経済的地盤を作り上げていく。 なお、堺市の町名には「○丁目」の「目」がつかない。1872年の町名改正で、改正前までは独立していた小さな町を「○○東一丁」や「○○西一丁」などに変更し、「丁」に「町」と同格の意味合いを持たせたことに由来する。以後、周辺の町村を合併し市域に編入したが、町を細分する場合も前例に倣い「丁目」を使わず、美原区を除く市内全域が「丁」で統一されている。