泉大津市の皆様、介護福祉士講座の5つの特長です
泉大津はこんな町です
泉大津市(いずみおおつし)は大阪府泉北地域に位置する市。 市名は和泉国の国府の外港(国津)であったことに由来する。和泉木綿の集散地となった江戸時代に真田紐をはじめとした繊維産業が興ると、これを地盤に明治以降毛布の製造が始まり、毛布のまちとして発展した。現在も国内産毛布においては9割超のシェアを占める。港湾も昭和初期に近代化され、堺泉北臨海工業地帯の一角を占め、近年は物流拠点としての性格も強めてきている。また、港湾や中心駅の再開発が進み、人口は増加傾向にある。 奈良時代には大津の地名が見られ、日本書紀にも登場する。 紀貫之の土佐日記では、小津(をづ)と詠まれている。土佐守の任期を終えて船で京都へ帰る途中、当地を経由して住吉へ向かっている。 けふ、からくして、いづみのなだよりをづのとまりをおふ。承平5年2月5日条 「ゆけどなほ ゆきやられぬは いもがうむ をづのうらなる きしのまつばら」 菅原孝標女の更級日記では、和泉守であった兄の菅原定義を訪ね、当地から船で京都へ帰っている。 冬になりて上るに、大津といふ浦に、舟に乗りたるに、その夜、雨風、岩も動くばかり降りふゞきて、雷さへなりてとどろくに、浪のたちくるおとなひ、風のふきまどひたるさま、恐しげなること、命かぎりつと思ひまどはる。 鎌倉時代には大津城(眞鍋城)が築かれ、戦国時代にはその跡地に大津御堂(南溟寺)が建ち、周囲は寺内町の様相を呈した。 江戸時代、泉州地域の農家の副業としてよく見られた綿花栽培の規模が拡大すると、港湾とその後背地としての寺内町を併せ持つ大津に綿花注文所が設けられ、綿花は船で大坂や堺の問屋に運ばれるようになった。また、原料の集散地に留まらず、真田紐などの加工品の製造も行われるようになった。 この地盤を活かして、明治時代には毛布の製造を開始。一大生産地に発展した。