西都市の皆様、介護福祉士講座の5つの特長です
西都はこんな町です
西都市(さいとし)は、宮崎県のほぼ中央部に位置し、日本最大級の古墳群である「西都原古墳群」で知られる市である。 宮崎県で5番目の面積を持つ市であり、市域の7割が山岳地帯である。 市を北西から南東に向かって、一ツ瀬川が貫流している。上流部では無数の小川が渓谷を刻み、それらの流れが集まって、九州最大の貯水量を誇る一ツ瀬ダム(米良湖)となっている。下流は宮崎平野が広がり、園芸農業、畜産業が盛んであるほか、西岸の洪積層台地には西都原古墳群が広がる。 中心市街地は都萬(つま)神社の南方に広がる妻(つま)地区。 記紀によると、天照大神の孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が日向の高千穂峰に降臨の後、居を構えたのが現在の西都市であったとされる。 西都は日本最大の古墳集積地帯であり、日本有数規模の古代国家がこの地に存在したと推定される。 律令期には現在市の中心部となっている妻(つま)地区に日向国国府、日向国分寺、国分尼寺が置かれ、日向国の中心地として栄えた。室町時代~戦国時代には日向国の地頭、伊東家が市南部に都於郡城を構え本拠地とし、領国経営の拠点とした。天正少年遣欧使節正使としてヨーロッパに渡った伊東マンショは伊東家の一族である。伊東家没落後、都於郡城には島津義久が入城し、豊臣秀吉九州征伐、高城の戦いにおける前線基地となったが、戦後廃城となった。 江戸時代は、穂北に幕府の番所が設けられ妻・穂北(ほきた)・地区は幕府の天領となり、三財(さんざい)・三納(みのう)・都於郡(とのこおり)地区は佐土原藩島津家2万7千石に組み入れられた。この時期には赤江・城ヶ崎(現宮崎市)が江戸・上方との物流拠点としての性格を備え、西都地区は日向国の拠点としての機能を次第に失ったようである。また、市の中心に横たわり、市名の由来でもある西都原(さいとばる)台地は、古代より斉殿原(さいとのはる)と呼ばれていたが、江戸時代に西都原(「さいとのはる」から「さいとばる」へ)の呼称が定着したとされる。 旧湯郡東米良村の一部は米良山であった。米良山は元和年間(1615年-1624年)に人吉藩の属地とされ、廃藩置県(1871年)の際には人吉県(後に八代県、球磨郡の一部の扱い)となり、1872年に美々津県(宮崎県の前身)児湯郡に移管された。その為、1872年まで現在の西都市寒川、尾八重、中尾、八重、銀鏡、上揚の各地区は球磨郡(当時の球磨郡)の寒川谷村、猪窪谷村、岩井谷村、尾八重谷村、椎葉谷村、鳥巣谷村、東八重谷村、銀鏡谷村、登山谷村、杖山谷村、浜砂谷村、横平谷村であった。その後、美々津県(上記の通り宮崎県の前身)に移管されて児湯郡寒川村、尾八重村、中尾村、八重村、銀鏡村、上揚村となった後、児湯郡東米良村の一部にり、後に西都市の一部となって現在に至っている。