宮古市の皆様、介護福祉士講座の5つの特長です
宮古はこんな町です
宮古市(みやこし)は東北地方の北部、岩手県の三陸海岸に面する市である。 県庁所在地の盛岡市より直線距離で東に約90kmの位置にある。 2010年(平成22年)1月の合併により、県内最大の面積を有する(1259.9km2[1])。 三陸におけるリアス式海岸の北端に位置する。 本州最東端の?ヶ崎(とどがさき)(重茂地区)を含む。 市では観光にも力を入れ、「本州最東端訪問証明書」を発行して「最東端の市」を売り込んでいる。 市の中心部を西から東に「閉伊川(へいがわ)」が貫き、宮古湾へと注いでいる。 新里地区では刈屋川(かりやがわ)が流れ、川沿いに国道340号や村落が造られた。川は茂市(もいち)で閉伊川に合流し、国道340号は106号に合流する。 市の南部から中心部に向かって津軽石川(つがるいしがわ)が流れて、宮古湾に注いでいる。「鼻曲がり鮭」で有名。 南に隣接する山田町との境には十二神山(じゅうにじんざん)がある。自衛隊の通信施設があるため、入山の際には連絡が必要。一般道の入口は山田町側にある。 地元では重茂半島にある月山(がっさん 別名「御殿山」、標高455.9m)も晴れた日の隠れた人気スポット。テレビ・ラジオの中継塔が建てられ、山道口まではバスも通っている。 川井地区は平地はほとんど無く川沿いに人家が密集する地区が多い。早池峰山、青松葉山があり、閉伊川が流れている。 地名の由来として寛弘年間(1004~1011年)、この地方の神官が阿波の鳴門の鳴動を治めた事から当時の一条天皇から「都」と同訓異字の「宮古」を地名として授かったというのが通説である(諸説あり)。 戦国時代以前は土岐家、閉伊家、戦国時代以降には南部家の臣下として一戸氏分流の千徳家、津軽石家がこの地を治める。 宮古は、海岸の西にはすぐ山地が峙えているため平野部が狭い。また周囲を山と海に囲まれた「陸の孤島」でもあるため、内陸からの物資の輸送が望めなかった。この地理的制約によって、飢饉が発生するたびにその被害は甚大なものとなった。 V字型の湾の両岸が奥に進むにつれて狭くなるリアス式海岸地形の特殊性によって津波の被害も大きく、明治以後も大規模な被害の出る津波が続いた(明治三陸地震・昭和三陸地震を参照のこと)。 江戸時代中期にはこのような「陸の孤島」であったこの地域での交通網整備に尽力する人材(牧庵鞭牛和尚など)が盛岡などとの往路の整備を完成させ、その功績は今もって賛えられている。又、現在も一部当時の往路が使用されている。 江戸時代末期には、東北地方最大の一揆である三閉伊一揆が勃発した。これは、盛岡藩の失政のツケを宮古を初めとする閉伊郡に対して重税を課して住民から搾取しようとした事が直接の原因であり、話の流れ自体は平凡な一揆であったがこの場合問題なのは規模であった。1847年、圧制に耐えかねた一揆団は1万数千人という他に例を見ないほどの人数で盛岡城下に押しかけ、藩側に要求を呑ませたのである(藩側は後にこの要求も破り、更なる人数での一揆へと発展する)。 幕末から明治にかけての戊辰戦争においては北海道にて独立を図る榎本武揚、土方歳三らの旧幕府軍艦隊(荒井郁之助総司令官)が宮古湾に停泊する新政府軍艦隊に対し奇襲作戦を敢行する、いわゆる「宮古港海戦」が勃発し一つの時代の終わりを告げる歴史的な場所となる。