金沢市の皆様、介護福祉士講座の5つの特長です
金沢はこんな町です
金沢市(かなざわし)は、石川県のほぼ中央に位置する、石川県の県庁所在地である。1996年(平成8年)4月1日、中核市に指定された。 江戸時代には、江戸幕府(約700万石と言われる)を除いて最大の石高を誇る加賀藩(「加賀百万石」)の城下町として、江戸・大坂・京の三都に次ぐ、名古屋と並ぶ大都市として盛えた。第二次世界大戦中、アメリカ軍からの空襲を受けなかったことから市街地に歴史的風情が今なお残っている。空襲の被害者やその遺族が少ない地域という理由から、終戦間もない頃には国際交流を目的として来日するアメリカ市民の滞在先としても選ばれた。また、長年の都市文化に裏打ちされた数々の伝統工芸、日本三名園の一つとして知られる兼六園、加賀藩の藩祖・前田利家の金沢入城に因んだ百万石まつり、さらに庶民文化(郷土料理の治部煮等)などにより、観光都市として知られる。また、近江町市場では、フードピア金沢という食の祭典の関連行事が行われていることから、美味しい食材が食べられる都市としても知られている。 南東部は山地で、奈良岳 (1,644m、金沢市の最高峰、犀川の水源) をはじめ、見越山 (1,621m) 、大門山 (1,572m) 、医王山(いおうぜん、939m)などがある。平野に近い部分は丘陵地となり、戸室山 (548m) 、キゴ山 (546m) 、野田山 (180m) 、満願寺山 (177m) 、卯辰山 (141m) などがある。戸室山・キゴ山は数十万年に形成された第四紀火山である。北西部は金沢平野で、犀川(別名おとこ川)、浅野川(別名おんな川)、金腐川(かなくさりがわ)、森下川(もりもとがわ)、伏見川、高橋川、内川などが流れる。犀川は日本海へ直接注ぐが、他の川は河北潟へ流れ、大野川を経て日本海へ注ぐ。海岸部は砂丘となっており、河口部分は北向きに曲がっている。犀川上流には犀川ダムや内川ダムがあり、上水道・灌漑などに利用されている。犀川と浅野川は平行して流れ、その間の河岸段丘が小立野台地である。小立野台地の西端に金沢城や兼六園がある。また、犀川の南側は寺町台地となっている。 日本海側気候で、年中湿度が高く、雲が発生しやすい。特に冬には雨・雪が降る日が多い。比較的好天が多いのは4-5月と10月、夏にはフェーン現象が起きて最高気温が35℃を超えることもある。梅雨の影響は太平洋側と比較して少ない。台風が直撃することもあまりない。11月末から12月にかけては雪が多い。ただし、1987年以降の暖冬に加え、平成3年に気象台が市内中心部からより気温が高く雪が積もりにくい海岸部に近い場所へ移転して以降、観測される降雪量は急激に減っており、北陸の他都市はおろか鳥取市よりも積雪量が少なくなった。そのため、市内中心部や内陸部との積雪の差が多きくなっており、金沢市内の積雪観測の実態を表してないとも言われる。[要出典] 降雪の深さ合計は平年で360cm、最深積雪記録は53cm、なお金沢地方気象台が現在の場所に移転する前の最深積雪極値は三八豪雪の1963年1月27日に記録した181cm。ただし、冬季の気温は曇りや雪の日が多く放射冷却が少ないため、全国的にはやや高め(1月平均気温3.7℃)であり、近年は暖冬傾向であること、また、除雪・融雪の態勢が発達していることなどから、冬季の都市生活にも支障はない。 湿度が高いため、伝統工芸の漆塗りや金箔製造に適している。 「金沢」という都市名は、昔、山科の地(現:金沢市郊外)に住んでいた芋掘り藤五郎が山芋を洗っていたところ、砂金が出たため、「金洗いの沢」と呼ばれたという伝説による。 「金洗いの沢」は、兼六園内の金沢神社の隣りにあり、現在は「金城霊沢」と呼ばれている。 戦国時代の一向一揆で本願寺の拠点が置かれた尾山御坊(金沢御坊)と、その周辺の寺内町を起源とする。天正8年(1580年)、織田信長配下の柴田勝家の甥佐久間盛政が尾山御坊を攻め落とし、その地に尾山城を築城した。 金沢城址賤ヶ岳の戦い以降、前田利家が尾山城(金沢城)を居城とし、加賀藩の原型が形成された。慶長5年(1599年)に利家が死去すると、翌年には関が原の戦いが起こる。利家の遺領を存続した長男の前田利長は、東軍の徳川家康につき、戦後、西軍に属した弟の前田利政の所領を与えられ、加賀国、能登国、越中国を有する大大名となる。3代目藩主前田利常の時代には、十村制や改作法といった農政改革を進め、支配機構の整備が行われ藩体制が確立した。5代目藩主前田綱紀は名君として名高く、木下順庵や室鳩巣、稲生若水といった学者の招聘につとめ学問を振興した。また彼は書物や美術工芸品の収集にも努め、それらは尊経閣文庫と呼ばれ現在に残る。その後金沢は150余年に渡り、加賀百万石の城下町として繁栄することとなる。参勤交代の時、前田氏は約2,000人の家来を従え、現在の価値で片道約7億円をかけて江戸との間を往来した。 以下江戸時代の藩政史料や地図、明治初期の統計書に記録されている金沢町の人口をまとめる。但しその多くが町奉行支配場(本町、地子町、旧門前地、大工地)の町方人口に関するものであり、主に寺社奉行支配地(門前地)に居住した僧侶・神職ほか、武家屋敷や一部町方・寺社方に居住した士分・武家奉公人については人口に関する資料がほとんど残っていない。 現在の金沢市中心部は、古くは石浦村と呼ばれていた。尾山御坊が置かれたことで寺内町として発展し、南町、西町、松原町、安江町、近江町、堤町、金屋町、材木町といった町が成立した。これを総じて尾山八町、或いは単に「尾山」と呼んだ。なお、尾山という地名は、「二つの川に挟まれた台地の先端」という意味を持つ。後に、前述の芋掘り藤五郎の伝説から「金沢」と称するようになるが、前田利家が城主になると一度「尾山」に戻され、家督を長男の前田利長が継いだ後に再び「金沢」となった。