前橋市の皆様、介護福祉士講座の5つの特長です
前橋はこんな町です
前橋市 (まえばしし) は、関東地方の北西部、群馬県の中南部にある市。群馬県の県庁所在地である。 国から中核市に指定されている。2008年には全国都市緑化フェアが前橋市と高崎市を中心会場、伊勢崎市と太田市をサテライト会場として開催された。 古くは厩橋と書いた。中世の読み方は「まやばし」(『前橋市史』第2巻、1973、前橋市、6-15頁)。初めは「うまやばし」だと推定される。江戸時代に前橋に改められた。明治時代に製糸業で栄えた都市の一つ。戦後は工場誘致を積極的に行い、同時に区画整理を推進した。2001年4月1日に国から特例市に指定され、2009年4月1日に中核市へ移行した。中心地域は旧東群馬郡前橋町を中心とする地域。 ニュースなどでは、「まえばし」の「え」の部分のみが高い中高型アクセントの読み方をされるが、地元では「え」以降が高い平板型アクセントで発音するのが普通である。「前橋市」と読むときの「まえばし」である。 関東平野の北西端、赤城山南麓に位置する。市内には利根川が流れる。伏流水による水質の良さで知られ、中心部で供給される水道水は、その地下水である。又、全国の都道府県庁所在地では海から最も遠い。鉄道交通では中心駅の前橋駅が幹線から外れているため、隣の高崎市の高崎駅が前橋市への中継点の役割を果たしている。 太平洋側気候と内陸性気候を併せ持つ。年間の平均気温は13~14度だが寒暖の差が烈しい。冬は北西の冷たい季節風が激しく吹くが、湿気は群馬県と新潟県・長野県に跨る山岳部の北東側に降雪してしまうため乾燥している。この地方では冬の北西からの季節風を「上州のからっ風」と呼ぶが、この乾燥した強い季節風の影響で晴天が多い。また、冬日は多いものの宇都宮や水戸などとは異なり放射冷却の影響を受けにくいため、-5度以下になることは稀である。夏は内陸部に位置するため地表が温まりやすく、熊谷(埼玉県北部)などと並び、日本で1、2位を争うほど暑さが烈しい。2001年7月24日に気象庁管区での最高気温の記録としては第5位となる40.0℃を記録した。更に、この高温のため雷が多い事でも有名である。 前橋市と南西に隣接する高崎市は競合・対立関係にあるとされ、さいたま市における旧浦和市と旧大宮市に似ているところがある。 よく「行政や文化の中心は前橋、交通や商業の中心は高崎」といわれることがある。これは前橋に県庁が置かれており、日本銀行の支店、国の出先機関や大手金融機関、県民会館に代表される県の施設や医療施設などが集中するなど、古くから行政の中心地として機能してきたのに対し、高崎は古代から東山道・鎌倉街道が開け、江戸時代には中山道・三国街道・日光例幣使街道などの主要幹線が交叉する一大交通拠点であり、現代においても県内交通の拠点としての地位を占めていることによる。 両市の関係はよくいえば「両翼興県」であり両市においての連携事業でもキーワードとなっている。県庁が置かれ萩原朔太郎ら多くの文人を輩出している「文化都市」前橋と、駅の周辺や古くからの街道沿いに商業施設が密集する「商業都市」高崎は、しばしば好対照として比較される。ただし実際は、後述のとおり年間商品販売額の県内第1位は前橋市であり、一方の高崎市は前橋市にない県立美術館や市立美術館(ただしこちらは中心街に開設予定がある。)、地方オーケストラとして著名な群馬交響楽団といった文化施設・団体を擁するなど、一面的な比較が難しいのも事実である。 前橋市と高崎市の人口は、大正9年の第一回国勢調査より、一貫して面積の広い前橋市が優勢であり、桐生市に首位を譲った時期を除き、群馬県下一の座を維持していた。しかし高崎市による2006年10月1日の榛名町合併により、高崎の人口は前橋市を上回ることになった。もっとも、高崎市は純山村である旧倉渕村などを市域に含めているため、人口密度やDID(人口集中地区)人口では依然として前橋市が上回っている。 両市の競合・対立関係は、以下に挙げる明治初期の県庁誘致合戦がその原因の一つである。 現在の群馬県が成立した当時、県庁は高崎に置かれていた。しかし、高崎城が当時の兵部省の管轄に入ったため、市内に散在する手狭な仮庁舎に各部署が分散配置された。当時、生糸の輸出で財を成していた前橋では、生糸商人と後の初代市長・下村善太郎により、県庁を前橋城跡に誘致する事を明治政府に提案し、各部署が分散配置されていることに不便を感じた明治政府はこの案を了承し、県庁は前橋に移転した。 高崎市民は、明治政府に県庁の奪還を幾度も訴えるが、いずれも却下されている。これにより、発展の基盤を奪われた高崎市民は、前橋に対する感情を悪化させた。この経緯が前橋に対するわだかまりとして残り、高崎市民・前橋市民が互いに対抗意識を抱くこととなる。 現在では、前橋・高崎およびその周辺自治体の商工会議所などが主体となり、県央政令指定都市の実現を目指した活動や、両市役所による前橋高崎連携事業など官民一体となった活動が行われている。 なお地政的には、江戸時代の前橋藩領・高崎藩領は入り組んでいた。一例を挙げれば、現在は高崎名物とされる「縁起だるま」で知られている少林山達磨寺は、前橋藩を守護する寺院である。一方、上野国府や総社神社・国分寺を含む古代上野の中心地域は高崎藩領であり、前橋城(現在の群馬県庁舎)の対岸にまで及んでいた。 高崎の藩域は、初代高崎藩主井伊直政の時代を除いて前橋藩を上回ることはなかった。しかし前橋藩主松平氏が利根川の氾濫で前橋城を廃し、江戸中期から幕末までの約100年間(江戸を中心に隆盛した化政文化時代を含む)は居城を川越に移したこと(川越藩の分領となる)などから、陣屋が置かれた前橋は城下町としての発展が少なかった。 1869年(明治2年)、明治政府により東京~京都の両市を結ぶ鉄道建設計画(中山道幹線)が発表され、1883年(明治16年)日本鉄道よって上野~熊谷間などが開業。翌1884年には上野~高崎間が開通した。古代から交通の要衝であった高崎は交通の拠点として、また商都として発展することとなった。 後年、上越線開設の際にターミナル駅を巡って前橋・高崎間で誘致合戦が行われた。前橋駅をターミナルとする案は実現しなかったが、当時の幹線ルートであった三国街道よりもかなり東側(利根川右岸)を通過するルートで敷設され、新前橋駅経由で高崎駅がターミナルとなることで決着した。