韮崎市の皆様、介護福祉士講座の5つの特長です
韮崎はこんな町です
韮崎市(にらさきし)は、山梨県の北部に位置する市。 県北西部に位置し、甲府盆地北西端に属する。やや横長の市域で、東西は南アルプス国立公園や県立南アルプス巨摩自然公園に属する山地や丘陵地となっている。西部は赤石山系に属する巨摩山地で最西部の鳳凰三山などがあり、東部は茅ケ岳丘陵に属する。市域中央には釜無川、塩川の両河川が南流し、かつての氾濫原であった平坦地に沿って市街地となっている。 市名は近世の韮崎宿に由来し、「韮崎」の地名は、長く伸びる七里岩がニラ(韮)の葉のように見え、その先端(崎)に宿場町が位置しているから、あるいはニラの群生地であったことに由来するなどの説がある。 市西部の「清哲町」(せいてつまち、旧北巨摩郡清哲村)は、特殊な合成地名の例として、地理・地名関連の書籍で取り上げられることがある(「水上」(さんずい)と「青木」で「清」、「折居」と「樋口」で「哲」と、合併した各村の漢字の一部分を合成して作られた)。 県外などでは「宮崎」などと同じように二文字目にアクセントを付けた「にらさき」と発音されることが多い(中央本線の特急あずさの車内放送・中央高速バスの車内放送など)が、県内では「高崎」などと同様の平坦な「にらさき」と発音される(「韮崎市」と発音するときの「にらさき」と同じである)。 律令制下には巨麻郡余戸郷に属し、官牧である穂坂牧が存在していた。平安時代には宝荘厳院領甘利庄が成立。常陸国から配流された源義清・清光の子孫が旧北巨摩郡地域に勢力を伸ばし、武田信義は市域に居館を構え武田氏を起し、氏神の武田八幡宮や氏寺の願成寺を建立。武田氏をはじめ甲斐源氏の一族は治承4年(1180年)に源頼朝の挙兵に応じて各地で活躍するが頼朝による粛清を受け、信義の子一条忠頼も謀殺される。武田氏の勢力は減退し甲斐守護職は二階堂氏へ移るものの、甲斐源氏の盟主として甲斐国内へ勢力を広げた。 戦国時代には、台頭した国人に駿河国の今川氏、相模国の後北条氏等が荷担し、市域も武田氏との抗争の舞台となり、享禄4年(1531年)には武田信虎と大井氏、今井氏らの国人勢力に信濃国諏訪領主の諏訪氏が荷担した河原辺合戦が起こり、国人連合軍を撃破した武田氏により国内統一が進む。武田晴信(信玄)時代には市域の甘利庄を本拠地とした甘利氏や、駒井郷の駒井氏らが家臣団として活躍する。 近世には38か村が成立し、釜無川以西の20か村が巨摩郡武川筋に、釜無以東・塩川以西の10か村と塩川以東の2か村を加えた12か村が同郡逸見筋、東部の6か村が同郡北山筋に属する。全村が幕府直轄領、近世初頭には徳川義直領、徳川忠長領、旗本領も存在した。甲府藩領を経て、享保9年(1724年)に甲斐一国が幕府直轄領化されると、再び幕領となる。享保9年以降在方は三分代官支配となるが、市域の村々は甲府代官支配に属し、一部は川田、上飯田、市川の各代官支配に属した時期があったと考えられている。また、御三卿田安家領も存在し、河原部村には陣屋も存在した。 龍岡将棋頭市域東西の山麓・台地は乏水地帯で生業は畑作が中心であったが、近世には東部の茅が岳山麓で穂坂堰、楯無堰の開鑿が、西部山麓では徳島堰の開鑿が実施され、新田開発も行われた。米麦栽培のほか、木綿や煙草の栽培も行われる。 甲斐、信濃、駿河を結ぶ交通の要衝であり、河原部村には甲州街道(甲州道中)や駿州往還、塩川沿いの佐久往還などの宿場町である韮崎宿が整備されたほか、河岸も設置され甲斐北西部や信濃からの廻米輸送も行われた。 韮崎宿は明治以降にも県北西部から信濃地域における交通・流通の拠点としての地位を保ち、明治6年の地租改正以降には米穀や馬宿を中心とした繁栄を見せていた。明治36年に中央線が開通すると、通過地であった韮崎は交通の要衝としての地位が低下するが、路線バスの発達や北巨摩郡の郡役所や地方事務所が設置されるなど北巨摩郡行政の中心的役割を担い、戦後には御勅使川工業団地の造成も行われる。