下関市の皆様、介護福祉士講座の5つの特長です
下関はこんな町です
下関市(しものせきし)は、関門海峡の北岸に面した山口県の市。本州の最西端に位置する。国から中核市に指定されている。 山口県を代表する都市の一つであり、その人口規模は県庁所在地の山口市を凌ぎ、山口県一の規模を誇る。中国地方でも5番目(広島市、岡山市、倉敷市、福山市に次ぐ)の人口規模の都市。経済面でも山口県西部(旧長門国)の中心的都市であり、下関市に営業拠点を置く企業も少なくない。その1つに山口銀行(山口フィナンシャルグループ)、一般紙「山口新聞」や日本最大の水産食品専門紙「みなと新聞」を発行するみなと山口合同新聞社の本社などが置かれていることなどがあげられる。また日本銀行も山口市ではなく下関市に下関支店を置いている。また、北部九州地域との交流も深い。 中心部の下関港周辺は、古くは赤間関(あかまがせき)と呼ばれており、これを赤馬関とも書いたことから、これを略した馬関(ばかん)という別名も用いられた。 1878年(明治11年)郡区町村編制法により、東京15区、大阪4区、京都2区、以下1区づつ名古屋、横浜、堺などと共に赤間関区が置かれた。 1889年4月1日の市制施行時に、山口県で唯一の市(赤間関市)として発足。1902年6月1日に現市名の下関市となる(詳細後述)。2005年2月13日、下関市、菊川町、豊田町、豊浦町、豊北町が合併(新設合併)して、新たに下関市が発足した。これは、山口県が指定する下関広域都市圏と一致し、広域都市圏が1市にまとまったことになる(→山口県#地域圏)。2005年10月1日より、国から中核市の指定を受けている。 山口県の最西端かつ本州の最西端に位置する。関門海峡を挟んで西を日本海(響灘)、南を瀬戸内海(周防灘)に接する。周防灘に注ぐ木屋川や響灘に注ぐ綾羅木川などの河口付近に形成されている沖積平野部を除くと、稜線が海岸ぎりぎりまで接近する地形となっており、特に旧市街では平地が少ない。旧郡部ではいくつかの盆地が点在し、それぞれの盆地で集落を形成している。市内に位置する主な山としては、関門海峡に面し観光スポットにもなっている火の山、航空通信施設などのある華山、あるいは狗留孫山などがある。人の住む島としては、関門海峡に面した彦島、響灘に浮かぶ角島、蓋井島、六連島がある。 気候は複雑で日本海側気候と瀬戸内海式気候と太平洋側気候の境界に当たる。冬は北西の季節風の影響で曇天が多く、雨・雪の降る日もある。降雪量は旧市域では少ないが、市域北部の山沿いでは積雪量は多くなり、一部の道路は路面凍結する。 西と南を海に囲まれ、響灘を流れる対馬海流の影響もあり、旧市内及び響灘沿岸の日較差(日最高気温と日最低気温の差)は小さく一般的には過ごしやすい地域と言える。しかし、瀬戸内海沿岸及び内陸部ではそれが大きい。年平均気温は16.5℃。 下関は山陽道と山陰道の結節点にあたり、さらには関門海峡を挟んで九州と対峙する位置にあったこともあり、古来より陸と海における交通の要衝であり続けた。陸路の例として、山陽道(西国街道)の終点であったことや現在の国道9号の終点であること、また国道191号の起点であること。海路の例として、近世に北前船(西廻り航路)の経由地であったことや、現在下関港が特定重要港湾に、下関漁港が特定第3種漁港にそれぞれ指定されていることが挙げられる。 交通の要衝であることは、国土防衛上重要な地点であることも意味する。明治期から終戦にいたるまで、下関から門司にいたる関門海峡沿岸一帯が下関要塞地帯に指定され、写真撮影や地図作成などが厳しく制限された。現在も、市内各所に当時の標柱や砲台跡など、要塞地帯の遺構が残っている。 戦前は、関釜連絡船就航によって中国本土や朝鮮半島への玄関口として活況を呈した。終戦時に下関港が在日韓国・朝鮮人送還の主要な出発港の一つになったこともあり、また日本で唯一毎日運航されている貨客国際航路である関釜フェリーの存在により、現在では市内全域に多くの韓国・朝鮮系住民が居住し、とくに下関駅北側グリーンモール商店街一帯は事実上コリア・タウンとなっている。現在、国際定期旅客航路としては、前述の関釜フェリー(韓国・釜山行)のほか、中国へは青島(週3便)・蘇州太倉(週1便)行きがそれぞれ就航しており、計3航路という国内最多の国際旅客航路を有している。 なお、下関市は本州と九州の接点として発達しているため、関門海峡の対岸に位置する北九州市との経済面および文化的な繋がりが極めて深い。観光や行政サービスなどで両市の交流が盛んなほか、買い物・娯楽・通勤通学・交通機関利用(小倉駅や北九州空港)を目的とした両市間の人の流れ(主に下関市→北九州市)が日常的にある。ゆえに北九州市小倉の商業・娯楽施設の動向が、下関市内にある同施設の経営戦略に大きな影響を与えている。(北九州市#下関との交流関係も参考のこと) 市制施行後、交通網の整備、新規街区の開発、市域の拡大とともに発展を続けた。しかし、もともと山がちで平地が少ない地形が開発計画の制約要素となって、街区の混沌と道路配置の輻輳などをもたらしていること、広い市域のわりに拠点施設が南部に偏っているなどの都市開発のアンバランスさ、山陽新幹線整備と関門橋完成により通過都市化が進んでいること、福岡市や北九州市の都市機能集中化による影響、造船業や水産業の衰退、などの複合的な要因により都市機能の低下と人口の流出が進んでいる。