塩釜市の皆様、介護福祉士講座の5つの特長です
塩釜はこんな町です
塩竈市(しおがまし)は、宮城県のほぼ中央に位置する市である。港町および陸奥国一ノ宮・鹽竈神社の門前町として発展している。マグロ水揚げ高は全国一位。 当地に関わる表記は、各機関・施設により「鹽竈」「塩竈」「塩釜」と書き分けられるが、全て「しおがま」と読む 宮城県のほぼ中央、仙台市と松島の中間に位置し、仙塩地区の中心の1つとなっている。松島湾と松島丘陵に囲まれており、平地のほとんどは埋立地である。市街地は、埋立地が6割、丘陵地が4割という比率である[1]。この狭い可住地に密集して人が住んでいるため、ロードサイド店出店に適した土地がない。そのため、減反政策で土地に余裕があった利府町や多賀城市にロードサイド店が多く進出するようになり、仙塩地区の商業の中心としての地位が奪われ、塩竈市中心部のみならず郊外部の商業も低迷している。 陸奥国の国府が現在の仙台市太白区(郡山遺跡)から多賀城市に遷った頃、陸奥国府の外港として、今の塩竈市内には国府津(こうづ)がおかれた(→仙台湾の港の歴史)。今の香津地区にあたると言われる。香津は内陸にあるが、古代には入り江が二つ、深く入り込み、南側の入り江に国府津があった。北側の入り江の北側に、海に面して鹽竈神社があった。港町と鹽竈神社は海を隔てて少々距離があったことになる。 陸奥国府が多賀国府(たがのこう)として七北田川沿いの岩切に移転すると、河口港の湊浜が国府最寄りとなり、塩竈の外港としての意義は薄れたが、以後は鹽竈神社と港湾を中心にして、中世にも町として続いた。町の名は神社からとられて塩竈となった。 戦国時代には留守氏の勢力圏にあり、留守氏が鹽竈神社の神人組織を自らの家臣団にした。伊達氏から養子に入った留守政景の代になって、実質的に伊達氏の領国の中に取り込まれた。 戦国時代の末期、伊達政宗は東北地方(奥羽)の南半分を征服し“奥羽の覇者”となった。1590年に伊達政宗が豊臣秀吉に服属したとき、留守氏も政宗を通じて間接的に服したはずだったが、秀吉は留守政景を自分に帰参しない独立大名とみなして取り潰した。政宗が政景に磐井郡黄海に2万石を割いて家臣にしたとき、留守氏の家臣はこれに従って移り住んだ。 1600年の関ヶ原の戦いを経て、1601年に伊達政宗が仙台城を居城として、後まで続く仙台藩領の形が定まった。これ以降1871年の廃藩置県まで、現在の塩竈市域を含む宮城郡は仙台藩の一部となった。 江戸時代に塩竈は、仙台市の外港として発展した。しかし、塩竈から仙台まで舟入堀と舟曳堀が引かれて物資が塩竈港を素通りするようになると、衰微しかけた。鹽竈神社を尊崇した伊達綱村は事態を憂えて、1685年に塩竈から課役を免除し、米以外の産物に塩竈への着岸を義務付けた。これによって町は活気を取り戻した。 明治時代のはじめに塩竈は人口約3500人を数えた。1887年に、今の東北本線の前身にあたる日本鉄道は、埠頭と直結する塩竈駅(現在の塩釜駅とは別)まで線路を敷いた。このことで、宮城県、あるいは東北地方における陸海の物流の結節点となり、流通業が大きく発展した。そして、のちにカメイややまやなどの宮城県を代表する企業が生まれた。カメイ会長は、ミヤギテレビのオーナーでもある。仙台港の開港以降、陸海の結節点の地位はそちらに移った。 1962年(昭和37年)に制定された新産業都市建設促進法に基いて、1964年(昭和39年)3月3日に本市を含む仙台湾地区が新産業都市に指定された。すると、同法23条に基いて本市や仙台市を含む8市町村で「仙塩合併」議論がなされた。しかし、議論は不調に終わり、現在も本市は独立を保ち続けている(一方、仙台市は後に泉市等を編入合併して政令指定都市に移行した)。 「塩釜市」と表記されることも多く、塩竈市内にある市以外の機関の名称の多くは「塩釜」になっており(郵便事業の支店も塩釜支店である。なお、杜の都信用金庫は塩竈営業部である)、JRの駅名でも「塩釜」(塩釜駅,本塩釜駅など)であるが、釜は所謂「ナベ・カマ」の「かま」であり、竈は釜をのせる「かまど」のことなので、字義が異なる。 市名が鹽竈神社の社号によることから、同市の公文書での表記は「竈」の字に統一されているが、竈の字は書き方が難しいため、市の公用文以外は「竈」と「釜」のどちらを使用することも認められている。市では竈の漢字を正しく書いてもらうため、公式ホームページやパンフレットなどで、「竈」の筆順を載せるなどのPR活動をしている。 なお、鹽については、常用漢字では塩なので、市名では「塩」を用いている。「鹽」の字は、鹽竈神社以外にはあまり用いられていない。 経済状況は厳しく、市のアーケード街ではシャッターを閉めて閉鎖した店舗が目立つ(シャッター商店街)。これは、多賀城市や利府町といった周辺地域や郊外に大型ショッピングセンターが次々と誕生し、集客力が著しく落ちたためとされている。観光による経済発展の為に設けられた、旅客船ターミナルのマリンゲート塩釜も、テナントが次々と撤退し赤字経営が続いている。 2007年にはJR本塩釜駅周辺の環境を一斉に整備。同年5月、旧国鉄貨物ヤード跡地に「マックスバリュ」を核としたイオンタウン塩釜ショッピングセンターをオープンさせた(同年2月に閉店したジャスコ塩釜店の事実上の後継店)。 食品スーパーのヤマザワが2010年4月3日に中の島地区に出店した。