宇土市の皆様、介護福祉士講座の5つの特長です
宇土はこんな町です
宇土市(うとし)は、熊本県の中央部に位置し、小西行長の城下町の市である。中世から交通の要地であり、豪族たちがその支配をめぐって争いを続けてきた。近代以降も、熊本県における商工業の拠点の1つであり続けた。 今日の宇土市を含む宇土郡は古代から見られる地名であり、その由来は、宇土半島がもとは島で「浮土」と表したのが転じたという説と、細く長い谷の意味を持つとの説がある。日本の渚100選の1つ御輿来海岸は、4世紀に九州遠征の際に立ち寄った景行天皇が景色の美しさに見惚れて、御輿を止めて、休んだという伝説が名前の由来である。また、網田には景行天皇がその手を洗ったという御手洗(みたらい)があり、現在も澄んだ水が湧き出ている。 中世宇土城は1048年に築城されたと考えられている。中世初期に紀氏の一族が宇土氏を名乗る武士団を形成した。やがて、鎌倉時代末期に菊池氏の一族がやはり宇土氏を名乗り、宇土城の城主となった。 1501年に宇土為光が菊池能運を破るが、後に攻め滅ぼされる。一方、為光側にあって八代を追われた名和顕忠が空白となっていた宇土領に侵入して宇土氏に代わって宇土城の城主となった。名物「小袖餅」の名前の由来となった昔話に名和伯耆左衛門尉という領主が登場する。 豊臣秀吉の時代に、名和氏に代わって佐々成政が入るが改易され、続いて小西行長が24万石の大名として入り、近世宇土城を築城した。しかし、小西行長は関ヶ原の戦いで西軍に属したため、斬首の刑となり、その領地は加藤清正に与えられた。小西行長はキリシタン大名としても有名で、一家全員が洗礼を受けている。 加藤清正は宇土城を大改修し、完成させたが、「一国一城令」に基づき、廃城とした。なお熊本城内に現存する宇土櫓は熊本城築城当時からのものとされているが、近年まで宇土城の移築説も存在していた。加藤家が改易となった後、細川家が肥後国に入り、1646年、細川行孝を藩主とする宇土支藩(3万石)が置かれた。細川行孝は城下町の水質を改善するため、轟上水道をつくった。轟上水道に使われた技術は、神田上水・小田原水道に次ぐものとして、日本水道史上、特筆される。 近代に入ってからも、九州商業銀行(肥後銀行の前身)や火力発電所・マッチ工場などが建設され、商工業の中心であり続けた。