鹿屋市の皆様、介護福祉士講座の5つの特長です
鹿屋はこんな町です
鹿屋市(かのやし)は、日本国鹿児島県にある市。九州南東部、大隅半島の中央部に位置する。 人口10万人を擁する、大隅半島の行政・経済・産業の中核となる都市である。年間の平均気温17℃という温暖な気候と豊かな自然を活かした農業・畜産が盛んであり、黒豚やブロイラー、落花生、サツマイモなどが特産品である。また、国立大学の鹿屋体育大学や海上自衛隊鹿屋航空基地があることでも全国的にその名が知られている。 鹿児島県内では鹿児島市(県庁所在地)・霧島市に次いで3番目の人口規模を有する都市である(人口10万人規模の都市としては他に薩摩川内市がある)。現在の鹿屋市は2代目であり、旧鹿屋市と肝属郡の2町(吾平町・串良町)、曽於郡1町(輝北町)との合併により2006年に発足した。初代・鹿屋市の市制施行は1941年5月27日(海軍記念日)である。 現在は「ばらのまち」「健康・スポーツ都市」をキャッチフレーズとしている。 大隅半島のほぼ中心部に位置しており、市域は東西20km、南北41kmに及ぶ。市の北西部には高隈山地、南東部には肝属山地(国見山地)が連なる。両山地との間に笠野原台地・鹿屋原台地などのシラス台地、市の中央部を流れる肝属川の沖積平野を中心とする肝属平野が広がる。西部は鹿児島湾(錦江湾)に接し海岸線が続いている。 研究者により気候区分の定義は異なる。一例としてケッペンの気候区分では温暖湿潤気候 (Cfa) とされる。日本国内の気候区分では太平洋側気候とする書籍もある一方で[2]、関口武の気候区分では九州型気候と南海型気候の境界上に位置する[3][4]、としている。 アメダス鹿屋(県立鹿屋農業高校内)の1976年からの統計資料[5][6][7]によると、年平均降水量は2,275.8mm、年平均気温は17度(1979 – 2000年)、年日照時間は1970.1時間(1986 – 2000年平均)である。 年降水量は1993年と1999年が特に多く、1993年は6月からの3か月で2,782mm(年間では3,887mm)を、8月1日には1日で365mmを記録した(平成5年8月豪雨も参照)。最少を記録したのは1986年の1,354mmであるが、1997年を最後に2,000mmを下回っておらず増加傾向にあるといえる。 年平均気温は16度から18度(1997年以降は17度を下回っていない)を推移しており日本国内では比較的温暖といえる。真冬日となったことはないが冬日は年平均で33.2日あり、鹿屋市より北に位置する鹿児島市や宮崎市と比較して冷え込みは厳しいといえる[8]。しかし、鹿児島市内で積雪に見舞われていても、鹿屋市では高隈山地などの山間部のみの積雪となることが多く[9]市街地では画像のような積雪はまれである。 鹿屋市内で発生した主な風水害として、1976年6月24日の集中豪雨や1993年の長雨などがある[10]。鹿屋市で「平成5年8月豪雨」といえば鹿児島市を中心とした「8.6水害」ではなく「8.1水害」のことを指し、同年9月3日の台風13号のほうがより大きな被害をもたらしている。 1993年の台風13号は「戦後最大級」と称されるほどの規模であった。鹿屋航空基地気象班の観測では最大瞬間風速約66m/sを記録し、九州電力鹿屋営業所管内のほとんどの世帯(98パーセント)で停電した。 縄文時代早期から人の定住があり、弥生時代には王子遺跡といった大規模な集落がみられるようになる。王子遺跡の竪穴式住居として特徴的なものに、宮崎県南部を中心に分布する「花弁状住居」がある。 古墳時代には南九州地域独自の地下式横穴墓がみられるようになるが、志布志湾沿岸に点在する前方後円墳は肝属川下流の串良町・吾平町でみられるのみで、旧鹿屋市・輝北町では他の鹿児島県内の地域と同様に存在しない。 7世紀ごろは隼人の全盛期であり、ヤマト王権が勢力を拡大する中現在の鹿児島県本土は半独立の状態であった。ただし隼人の一部は早くからヤマト王権とのつながりを深めており、国造・県主となった者も存在した。713年に大隅国が設置されても完全にヤマト王権に服属せず、約6年後(720年)には大隅国国司の陽侯史麻呂を殺害した隼人の反乱が勃発した。ヤマト王権はこれを1年半をかけて制圧し、大隅の支配体制を確立した。班田収授法が大隅国で実施されたのは800年のことであったが、すでに班田収授法は壊滅状態であり、大隅国内のほとんどの領地が荘園[19]となった。 律令制では大隅国に属し、鹿屋市の大部分は姶羅郡(現在の姶良郡とは別)・大隅郡(明治時代に消滅、大隅国設置当時の範囲は現在の大崎町から鹿屋市南部にかけての肝属川流域)となった[20]。なお、当時の肝属郡は大隅半島最南部(現在の南大隅町・肝付町など)に位置しており、中世以降に姶羅郡も肝属郡に含まれるようになった。曽於郡は現在の曽於市・垂水市北部・霧島市東部を範囲としていた。 平安時代中期(930年代)の辞書『和名類聚抄』には、姶羅郡の郷として「鹿屋」「串伎」、大隅郡の郷として「姶﨟」がみられる。 984年(『高城町史』[21]では968年)に肝付氏の祖、伴兼行が薩摩国惣追捕使として下向し、子孫である兼俊が高山(現在の肝付町)へ移住した1036年に肝付氏を名乗る[22]。肝付氏は島津荘などの荘園を実質的に保有していたが、1185年に島津忠久が地頭として島津荘を管理することとなり、ここからおよそ400年にわたる肝付氏と島津氏の争いが幕を開けることとなった。